2016年8月7日日曜日

シン・ゴジラの感想

話題の『シン・ゴジラ』を観てきた。

身の回りに結構ちゃんとした感想記事を書いている人が複数名おり(ないしの君ロバさん宮田君)、あえて色々付け足すほどのネタも情熱もないのだけれど、気になったポイントを備忘的に書き記す。

1. これは自分の話なのだ、という恐怖


ちょっと大袈裟というか幼稚な感想なのだが、登場する官僚や科学者達の奮闘ぶりを見ながら、「もしかするとこれを現実にやるのは自分かもしれない」という空恐ろしさを感じた(特に序盤)。

たとえばゴジラ第一次上陸前後の会議シーン群。あけすけに風刺の効いた「想定外」の連発や、あきらかに現役政治家に容姿を寄せたキャスティングに笑ってしまうと同時に、オタオタする閣僚の背後からカンペを差し入れる官僚たちの姿に、ほかならぬ(主に霞ヶ関へと就職していった同輩諸兄を中心とする)広義"われわれ"の数年後を見てしまい、思わず変に感情移入して泣きそうになってしまう。他にも「うちの理研」で危険な生体サンプルの解析を夜な夜な手伝わされているのは理学系研究科あたりから出向している大学院生だったりするんだろうかとか、同じデパートメントの動物行動学の先生はやはり有識者会議に呼ばれるだろうかとか、10年後ぐらいに「フランス政府にパイプのある若手議員」になってそうな奴友達にいるなとか、国連科学諮問委員の某先生はこういう時安保理にアドバイスするんだろうなとか、考えるほどに虚構<ゴジラ>と対峙する現実<ニッポン>が他人事とは思えなくなってくる。もちろんこれらは「空想科学読本」的/設定厨的な下らない読みと言われてしまえばそれまでだし、現実には巨大不明生物ほど理解不能な事象が東京を襲う、という事態はまずありえないだろう。それでもなお、フィクションのディテールによって、「"われわれ"自らが、たいした決意も志もないまま、ペーパーテストの均質でスムーズなルートを辿って、いつの間にか『戦後日本』というシステムのメインパーツを演じるという重責を(スペアがいくらでもいるとはいえ)潜在的に負っている」という事実への反省を唐突に迫られた、という意味で、『シン・ゴジラ』は僕自身にとっては衝撃が大きかった(そんなことは本当に官僚や政治家をやっている人にとっては改めて言うまでもないことかもしれないが、例えば先の原発事故後に急に有識者会議に引っ張りだされた学者は似たようなことを感じたのではないだろうか。少なくとも僕が「科学者の社会的責任」というフレーズをこんなに身近に、かつ痛切に感じたのは今度が初めてだった)。

ここへ来て思い出されるのは「東大へ入ると、こんな出鱈目な奴らがこの国を回しているのかとほとほと絶望する」という予備校教師の言葉や、「この国はじき崩壊するだろうが、立て直すのは君たちの仕事だ」という高校の先生の断言である。弱ったことにほんとにそうなのである。弱ったことに。

2. ありふれたユートピアとしての戦後日本と不条理な跳躍


この話は、ないしの君のシン・ゴジラ評を読みながら、最近読んでいたオルダス・ハクスリーの"Brave New World"(『すばらしき新世界』)を思い出して考えたことなので、やや作品の感想からはやや逸脱するかもしれない。

"Brave New World"は(ほとんど古典なので今更解説は不要かもしれないが)簡単にまとめると「生殖医療と感情制御技術で完全な安定が達成した未来のイギリスに、シェークスピアを読む野蛮人(!)がやってくるも適応できずに自殺する」という話。そこで描かれる「個人なき快楽主義のユートピア 対 自由(あるいは崇高、あるいは美)のために苦痛に甘んじる野蛮人」という(典型的なユートピア的ディストピアの)図式に、ないしの君が指摘する「主体性なきシステムとしての戦後日本 対 牧教授=ゴジラ」という構図はかなり重なっていはしないか、というのがここでの提案(もしかして「人類補完計画 対 碇シンジ(惣流・アスカ・ラングレー?)」もここに重なるのかもしれない。ちょっと違うか?)。

この(雑な笑)アナロジーによって問いたいのは以下の二点。

  • 「個人の消滅とシステムの自己保存的な作動」というユートピア観が80年以上も前のイギリス人によって想像されうるほど広く流布したものであるならば、決定主体としての「個人」を必要としない戦後の(おそらく戦前も)日本を克服されるべき宿命のように捉えることは、ある種の「日本人論」的例外主義に片足を踏み込んではいないだろうか?
  • "Brave New World"において、自由への殉教者=野蛮人は、楽園の愚者たちと同じ程度に戯画的に描かれている。ここでのメッセージは明確である: 「個人」たり続けようとすることと、幸福の中に安住し続けることとを隔て得るのは、ただ美的な、あるいは倫理的な決意のみであるーーそしてそのような決意は本質的に無意味である。
    そうであるならば、牧=ゴジラを、あるいは矢口や赤城を、その無意味な美意識へと駆り立てたものは何だったのだろうか?(それは例えば「恨み」(ないしの君)とか「栄光の戦わざる軍人」(ロバさん)みたいなことなのかもしれない。)あるいはわれわれは/僕は何よってこの無意味な決意を保ち続けることができるだろうか?(明晰さによって同じことを達成しようとしたカミュのことを思い出す。)


***
ややとっちらかってしまったが、なんにせよ『シン・ゴジラ』が稀に見る職人芸的スペクタクルであることは間違いなく、特に僕のイチオシは「ヤバいものを目撃した」というイヤ〜な後味を与えてくれるゴジラ第一形態。今思えば、弱々しく死にそうな姿で血を吐きながら呑川を遡上する第一形態の姿が、いちばん生々しく牧の怨念を伝えていたのではないかとも思われる。




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