自分探し

自分探し

 冷たい空気が日本海を越えて東京にも流れこんできたその秋の日の朝、僕は自分探しの旅に出かけた。僕はリュックサックひとつで新宿駅から特急列車に乗り込み、昼すぎには中禅寺湖のほとりに立っていた。季節はまだ紅葉には早く、木々は青々とした葉をつけていた。僕は湖畔の歩道のない道を西へ向かって歩いた。
 自分探しの旅とは言っても、もちろん僕だって一泊二日の日光ごときで人生が変わるなどと信じているわけではない。だが今の僕は実際東京でのあれこれに疲れ果てていて、切実に気分転換を必要としていた。湖は日の光を映して美しかった。額に汗がにじんだ。景色を眺めながら黙々と脚を動かしていると、色々なことを考えなくて済んでいい、と僕は考えた。
 湖畔を離れ、戦場ヶ原へ近づいた頃、僕は木立の遠く向こうからこちらを見ている男がいることに気づいた。僕が立ち止まると男は背を向けて歩き出した。深緑のロードスターが僕のすぐ脇を走り去った。その風圧に半ば押し倒されるように、僕は溝を踏み越えて林の中へ入った。
 クマザサを踏み分けながら、僕は男の後を追った。草葉の擦れ合う音だけが大きく聞こえた。男の背中は遠のくでもなく近づくでもなく、そこにはある種の予定調和さえ感じられた。やがて行く手にみすぼらしい山小屋が現れた。男がその中へ吸い込まれるように入ってゆくのが見えた。今や日が傾き始めていた。山小屋の扉は僕を誘い入れるかのように半ば開いていた。僕はおそるおそる戸をくぐった。
 薄暗い室内には、低い木のテーブルを挟むように古ぼけた革張りのソファと肘掛け椅子が並んでいた。男は窓を背に戸口を向いて立っていた。黄金色の陽光が彼の輪郭を薄闇の中に浮かび上がらせていた。彼は、部屋に全く似つかわしくない、一目で高級品とわかるスーツを着ていた。彼は僕にソファをすすめると、自分は向かいに腰を下ろし、身を乗り出してポットのコーヒーを二人分のマグカップに注いだ。僕はコーヒーの泡がカップのふちをゆっくりと廻るのを見た。男が口を開こうと息を吸うのを聞き、僕は顔をあげ、はじめて彼と眼をあわせた。彼の三日月形に細められた目は、僕に奇妙な既視感を与えた。一瞬の後、僕はそれが自分の目であることに気づいた。
 彼は、終始微笑を浮かべたまま滔々と語った。曰く、彼はとあるバイオベンチャーの共同創業者であること、僕は技術確立のため彼をオリジナルとして秘密裏に作られたクローン人間であり、実験成功を見て里子に出されたこと、僕が僕の大学の医学部へ進学したことは、僕と彼を知る業界人との接点を生みかねず、彼にとって危険であること。彼が話している間中、僕はマグカップの取っ手を握ったままついに一言も発することが出来なかった。何を言うべきか、僕が意識を集中できないでいるうちに、彼はさて、と立ち上がり、僕には然るべき処分が下される旨だけ言い残すと、振り返りもせず小屋を後にした。
しばらく、僕は身じろぎもせずソファに座っていた。沈黙が泥のように部屋に沈んでいた。僕は握り続けていたマグカップに口をつけたが、コーヒーはすでに冷たくなっていた。日はとうに白根山の彼方に沈み、窓には途方に暮れた僕自身の顔が映るばかりであった。


(おわり)

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