反かわいい宣言

(※本記事はちゃんとした文献に基づかない忌むべき典型的素人社会学・素人日本人論ですので、タワゴトと思ってご笑覧ください。)

色々あってこの間まで半年も日本を離れていたのだけど、帰ってきてビックリしたことがある。

女の子がかわいいのだ。

さらに言えば、わりと誇張なしに「日本の女性は世界で一番かわいい」のではないかという確信をここの所深めつつある。単にお前の嗜好だろうと言われればまあそれまでなのだけど、僕はこれを(そういうものがあるとして)客観的に見てもそうだ、と主張しようと思う。別に世界中をわたり歩いたわけでもない僕が、敢えてこういうことを断言するからには、一応もっともらしい理由が用意してある。

それは、「『かわいい』が日本語だから」というものだ。

…「トンチかよ!」というツッコミが聞こえてきそうだが、例えば"Kawaii"という言葉が"Cute"とか"Adorable"と翻訳されずに(日本の諸カルチャーを指すものとして)どうやら(英語の)ボキャブラリに定着しつつあるらしいということは、実際に「かわいい」が極めて独自な概念であることを端的に示しているのではなかろうか。



図1 ラーメン > かわいい > うどん

これを見ると「文化輸出が上手く行ったね、クールジャパンだね」などと一瞬思いそうにもなるが、"Kawaii"という言葉が移入された事は英語圏の人々が我々と同じように自然にかわいいものをかわいいと思っていることを全く意味しない。例えば英語版Wikiの「かわいい」の記事日本語版と比べて読むと、後者が「かわいい」をどちらかと言うと「人類普遍的な愛着の感情を示すための日本語の語彙」と捉えているのに対し、前者はほとんど具体的風習の羅列的記述に終始しており、"Kawaii"が独特の趣を持った"Cute"のバリアントというよりむしろ、「異質な文化の理解不能な習俗」として捉えられている雰囲気が伝わってくる。

実際個人的な感覚としても、帰国した直後は例えば20過ぎた人がピンクのコートを普段着として着ていたりする[1]のはかなり変わったことのように見えた。これは、単にアメリカにはそういう格好をしている人がいなかったというだけなのだけど、少なくとも渡航前には全く意識されていないことだった。

ではいったい我々が「かわいい」という言葉で指し示している性質とは何なのか?例えば先ほどリンクを張った英語版ウィキペディアには"Kawaii"は"Cuteness"の1種であって、"Cuteness"は「若さに関連付けられる外見的魅力の一種」だ、とある[2]。また"Kawaii"記事内には"Neotenic"という言葉も使われている。日本語版の記事でも、「かわいい」とは「幼いもの、小さいものに対する情愛や愛着」であるという説明がなされている。事程左様に「かわいい」は「幼い」「子供っぽい」ということを多分に含意するようだ。これは日常的な「かわいい」の用例を少し考えればすぐに言えそうである[3]。一方で、「かわいい」が形容する範囲は単に外見のみにとどまらない。例えば「かわいい人」という表現を読めば、その人の性格についても何かが言われていると受け取るのが普通だろう。従って、我々が人に対して「かわいい」と評価するとき時、意識的にせよ無意識的にせよ、内面についても「幼い」「未成熟」と言っている―あるいは敢えて雑な言い方をすると―「バカっぽい」と言っていることにならないだろうか。

…というのが僕がここで主張したいことのミソだ。もちろん「バカっぽさ」だけが「かわいい」の全てだなどと言うつもりは毛頭ないが、少なくとも2つの言葉がある程度同じ方向を向いていることは疑いようがないように思われるし、そうすると「かわいい」が人に対する肯定的なワードとしてほとんど氾濫と言っていいほど多用されている現実には、かなり問題がありそうだ。今日日「女はちょっとバカなぐらいがいい」というようなアナクロで差別的なことを言って憚らない男は幸い少なくなっていると思う(思いたい)が、いまだとんでもない数の人が「かわいい」という言葉を使って無意識に殆ど同じようなことを言っているのである。

裏を返せば、これは「知的でかわいい」ということは原理的にありえないということを意味している。そう呼ばれるものがあるとしても、実の所「知性」は「勉強はできる"けど"ドジでかわいい」とか「頭脳明晰"だけど"家事はまるきりダメでそこがかわいい」のような別の部門でのバカっぽさ・ダメさの添え物的役割を占めるにすぎない。つまり知性に妥協せずに美しくなることは多分可能だが、知性に妥協せずかわいくあることは不可能なのだ[4]。「バカっぽい≒かわいい」が(女性の)評価基準として氾濫する我々の社会において、ある程度以上学歴がある女性が不公平にも割りを食うハメになるのはほとんど論理的必然と言える。



図2 高学歴女性が割を食う人物評価のイメージ図[5]

このような男女間での社会的評価のルールの食い違いは、逆に一部の男性にも不公平感をもたらすことも予測する。特に日本の労働現場における女性の扱いのひどさはよく指摘される印象があるが(最近もこういう報道があった)、女性の地位向上といった話題に「女ばっかり贔屓して」みたいなことを言うオジサンがいがちなのにはこういう背景があるのではないかと想像する[6]

誤解のないように言っておくと、僕はこれをもって日本は野蛮だ、という話がしたいわけではない。それぞれの文化に色々異なる価値基準があるのは当然だと思うし[7]、だいいち公正をどう定義するかというのはそれ自体とても難しい。ただし、僕達が長い時間をかけて好むと好まざるとにかかわらず選びとってきた政治システムの根本的なルール[8]は本当はそのような不公正とは相容れないはずのものである、ということは言えると思う。一方で、僕はそれぞれの個人が現状の「かわいい」のルールを上手く察知し利用してしたたかに得をしていく人を非難するつもりも全くない。コストを払ってまで自分が損をするような戦い方をしたくないのは誰だって同じだし、そんな事を人に強いる権利は誰にもないと僕は思う(女性は自立せよ!という論調のフェミニズムがあんまり流行らないのもその辺に理由があるのではと想像している)。

最後に、当然だが僕は「かわいい」がこの社会に根強く残る色々な男女間差別の根源的な(単一の)原因だというつもりはない。むしろ「かわいい」は有形無形の不公平なルールが互いに支えあい全体として差別を温存させているネットワークのノードの1つだ、というくらいがあたっているだろう。ただし、その色々なノードの中で「かわいい」は比較的アクセスしやすい(個々人の心がけ次第で変わりうる)部類に属すると思う(例えば雇用形態がどうこう、と言った話と比べると)。そういうわけで、僕の最終的な主張は、少しでも多くの人(特に男性)が、少なくとも「『かわいい』と人を褒めるとき、望んでいようがいまいがその不公平にいくらか加担している」ということを意識するようになってほしい、ということである。そうすれば、巡り巡ってこの社会が多少なりとも色々な人にとって住みやすい所になるのではないか、と想像する。


[1] これは特にロリータ・ファッションというわけではない。これはヨーロッパを旅行した時も思ったけれど、何となく日本で流行っている服は装飾過剰な印象がある。ちなみにボストンでは(単に土地柄というのもあると思うが)男女問わず殆どの人がNorth FaceかColumbiaのダウンジャケットにジーパンという出で立ちだった。
[2] 例えばライオンなどの動物の大人を「かわいい」と表現する人は少ないだろうが、動物の子供は「かわいい」。これは"Cute"でも同じのようだ(Cute Lion Cubs)。
[3] そういうわけで英語圏でも"Cute"が大人の女性に対する褒め言葉として通用するのだったらこの議論は破綻するのだけど…。
[4] 与太話的ではあるが例えばこういう話。
[5] 雰囲気でこういうグラフを出すのは色々怒られそうだが、男性の評価が知性≒学歴に対して基本的には単調増加なのに対し、女性の評価には学歴と負の相関をする成分が入っているので、点線部分より右側に位置する女性は「男性と同じ努力をしているのに割りを食っている」という不公平感を感じることになる、ということを読み取ってほしい。でも、質問紙とかを作って数量化して検証するのも頑張れば可能じゃないかとは思う。容姿の効果は男女ともにランダマイズされているという想定。
[6] これは完全にステレオタイプ。
[7] 印象的な例としては、友達の6年制の薬学部を出たとても聡明でリベラルなサウジアラビアの女性は、「車の免許を女性に出さないサウジの法律はバカバカしい差別だけど、たとえばクルアーンに書いてあるようにヒジャブを被るのは当然だし、アメリカのように何でもアリにするのは私達には理解できない」という旨のことを言っていた。そのアメリカでもおそらく一昔前は多分ちょっとバカな女性がモテる、というような風潮は多分あったのだと思うのだけれど(寡聞にして知らない)、色々あって今日日そういうのは流行らないようだ。きっとメディアに出てくる女性のロールモデルみたいなのが(例えばマドンナとか)かなり重要だったのでは、と想像している。要勉強。
[8] 憲法第14条 "すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。"

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