2018年4月9日月曜日

神経科学という名前のこと

神経科学(Neuroscience)の大学院生をやっているということになっているのだが、いまいち神経科学という名前がしっくり来ない。

目的や手法がどうであれ、何かしらの形でニューロンを扱ってさえいれば、それは定義上神経科学なのである。結果、ニューロンで転写されているRNAの研究[1]から、心理学の研究までが神経科学の括りに入ってしまう。これは、はっきり言ってざっくりしすぎている。

例えば、神経科学の世界最大の学会であるSociety for Neuroscience (SfN)には、毎年3万人が参加する[2]。が、誰に聞いても発表の9割は自分の研究と遠過ぎて何をやっているのかよく分からない、というような答えが返ってくる。自分の実感としても、発表件数がやたら多い割に、結局楽しめたのはもともと知っている一握りの研究者の発表だけ、という感覚がある。

同じような神経科学内部での解離現象は、大学内部のレベルでも見て取れる。アメリカの神経科学業界(?)[3]では、「計算論的 (Computational) 神経科学」「システム (Systems) 神経科学」「分子・細胞 (Molecular/Cellular) 神経科学」というカテゴリ分けがどういうわけかよく用いられるのだが、学生のトークやジャーナルクラブの参加者を見ていても、やはり同じカテゴリに聴衆が偏っているし、人と話していても「計算論(あるいはシステム/分子・細胞)の人たちがやってることは何が面白いのかわからない」というような感想をよく耳にする。

ではそのカテゴリ内部では誰とでも話が通じるのか、というと、これが必ずしもそうでもない。先月頭、コロラド州デンヴァーで開催されたCOSYNE (COmputational and SYstems NEuroscience)という学会に参加してきた。COSYNEはその名のごとく計算論的・システム神経科学に特化した比較的小規模な集まり(約800人)で、明確に両カテゴリの協働を志向している。自分がローテーションをしてきた研究室は、いずれもショウジョウバエの知覚システムを対象に、実験とモデリングをどちらもやっている所なので、分類上自分の興味はCOSYNEのフォーカスとドンピシャであるはずと言える。にも関わらず、普段論文で名前を頻繁に見かける主だった競合研究者は思ったほどCOSYNEに参加しておらず、また発表のマジョリティを占めていた大脳皮質の力学系モデリング研究がそれほど自分の研究と関連するとも正直あまり思われなかった。

「計算論/システム神経科学間の協働」のような比較的絞られたテーマの集まりの中ですら、大幅な興味の食い違いが起きたり、多数派/少数派が形成されたりしてしまうのはなぜなのか?重要な論点は二つあると思う。第一に、そもそも「計算論」「システム」といった分類は、思想的な源流[4]というか、研究の系統関係を無視した、横断的なクラスタリングに過ぎないということだ。例えば、「計算論的神経科学」というカテゴリは、だいたい「数理的な手法を多く使う人達」というくらいの意味で捉えられているが、同じ「数理的」と言っても、扱っている対象によって役に立つ数理的なフレームワークは様々だ(例えば知覚研究は信号処理や統計学と相性が良いのに対し、記憶や意思決定の研究は神経集団の力学系モデリングのような、物理学的なアプローチと関係が深い)。第二に、Campbellが"Ethnocentrism of disciplines"で議論しているように、一旦組織の中で(ランダムにせよ)形成された「多数派」は、ポジティブ・フィードバック的な仕組みによって強化されていってしまうということだ。

横断的で大雑把な枠組みで学会や大学のデパートメントが組織されていることには、当然良い面と悪い面がある。第一に、横断的なくくりを設けることが、系統的に異なる研究分野間での水平的なアイデアの移動を可能にするという考え方がある(e.g. 学際研究)。しかし、手法や目指す認識論があまりにかけ離れた研究間でこのようなシナジーがそうそう起きるとも思われないので、特に「神経科学」のような研究対象ベースで定義されたくくりを「学際」のロジックで正当化するのは難しいのではないかと思う。加えて、対象ベースの大きいくくりで博士課程の教育プログラムを組織することには明らかなデメリットがある。くくりが大きいだけに「分野の基礎知識」とみなされる内容が膨大になってしまう上、その内容のほとんどが個々人の具体的な研究プロジェクトとは無関係になってしまうからだ。例えば自分の場合も、アルツハイマー病の分子機構やげっ歯類の脳の構造を教わっていた時間で、電子回路や信号処理の勉強をできていたらはるかに有用だったろうと思う。

以上の二点はどちらかというと出資者の視点から見た、研究分野全体の生産性という点での良し悪しに相当する。逆に、個々の研究者から見た時に、大雑把でも大きなくくりの中に所属することの一つ明らかなメリットは、大きい組織には政治的な発言力があるということだ。例えば、オバマのBRAIN Initiativeのような大きい予算は、SfNに代表されるような「神経科学」という大きなくくりなしでは実現し得なかっただろうことは想像に難くない。ちゃんと調べたことはないが、一般に大きいデパートメントのほうが学生の福利厚生などもきちんとしている印象がある。ただ、研究に限らず大きな組織の中でマイノリティになってしまうと何かと割を食うものであるので、ポジショニングには気をつける必要があると思われる。

まとめ

  • 神経科学(Neuroscience)という「分野」は、純粋に研究対象をベースにした大雑把なくくりで、そのサブカテゴリも実際の研究の流れを汲んだ分類になっているとは言い難い。
  • 研究対象をベースにした「分野」の組織には、特に教育面でデメリットがあると思われる。
  • 大きい研究分野/組織に所属することには、発言力というメリットがあるが、その中でマイノリティにならないよう気をつける必要がありそう。


[1] やや誇張した喩えではあるが、「コンピューターサイエンス」と称して半導体の製造法の研究をしているようなものなので、正直それは分子生物学のほうに移管していいのでは?と思っている。
[2] 2年前のSfNでコロンビアのM. Goldbergが語った所によると、SfN創立当時の実験生物学会(?)かなにかがまさに今のSfNのような状態(参加者2万人)だったということのなのでやや皮肉な話ではある。
[3] 国によって大学や学会における分野のまとまり方はまちまちで、例えば日本にはほとんど神経科学のデパートメントがない一方、ドイツ等では「サイバネティクス研究所」のような工学と生物学の境界領域にフォーカスしたような組織がより多くある印象がある。
[4] NeuroTreeのようなリソースを使いつつ生物学史家のような人が整理してくれるといいと思っている。

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