2019年1月5日土曜日

年頭所感

 1年以上前にtwitterや日記をやめて以来、身の回りのあれこれをコンスタントに振り返る習慣をすっかり失ってしまった。研究テーマもほぼ固まり、向こう数年間はとにかく研究を全速力で進める、という方針がはっきりした今、(これまでずっとやってきた)自分の隠れた欲望を問い直すような作業の必要性は実際低くなっているものの、一応備忘まで、昨年やったこと・考えたことを軽くまとめておくことにする。

研究の進捗状況

5月に一時帰国するまでは、Jeanne研究室というところで2件目の研究室ローテーションを行った。研究"室"とは言っても、先生は前年の11月に赴任したばかりで学生は自分一人。実験装置のセットアップから始めて、ショウジョウバエ嗅覚系でのin vivoパッチクランプを4ヶ月かけて練習した。さすがに科学的にたいした成果は残せなかったが、細胞内記録を通じて神経細胞の生物物理をより直感的に理解できるようになったのは収穫だった。加えて、マンツーマンの"ジャーナルクラブ"で、知覚の回路計算に関する論文をモダリティ横断的に読めたのはいい勉強になった。
 6月下旬に日本から戻ってからは、(博士出願時の希望通り)Clark研究室に所属、ローテーション時のプロジェクトを継続する形で仕事を進めた。そのうち、ポスドクと一緒に進めていた運動視に関するプロジェクト(以下P1)には、自分が第2ローテをやっている間に大きな進展があり、自分はこれを補完するダメ押し的なイメージング実験をいくつか行った。また12月中旬にはなんとか論文執筆開始にもこぎ着けることができた。もうひとつ、ほぼ自分一人でやっているプロジェクト(以下P2)では、特定タイプの視覚系ニューロンの行動との関連性や受容野特性、神経伝達物質の入出力等々をかなり包括的に調べていて、幸運にもこちらの戦線でもいくつか面白い発見が続いた。その他、特に行動実験で散発的に面白い現象をいくつか見つけることができたが、これらが出版可能なプロジェクトに育つかどうかは今の所不透明。


自己評価

自分が博士出願時に策定した研究戦略の要点は、いわゆるMarrの三水準(計算理論・アルゴリズム・実装)すべてで満足行く記述を与えられるような問題に(少なくとも博士の間は)専念し、「正しい理解の作法」のようなものを身につける、ということにあった。その点、行動実験と諸々の遺伝学的ツールを併用できるショウジョウバエをモデルに、「軌道修正のための運動推定」という計算理論がよくわかっている問題をメインに扱っている今の研究室に着地できたのは完璧に狙い通りと言える。
 その一方、最も時間を割いているP2では、原理的に計算理論を特定するのが困難なタイプの視覚行動を相手取っている都合、アルゴリズム以下のレベルでの・どちらかというと伝統的な(電気)生理学的な仕事に終始してしまっているきらいがある。それはそれで面白い結果は出ているので、もちろん論文になるまできちんと仕事をするのだが、当初の目標に鑑みるとやや脱線の感は拭えない。そんなわけで、昨年末にはもう少し計算理論的な議論のしやすいテーマを扱うサイドプロジェクトを発足させ、予備実験に向けた準備を行った。P2を深追いしすぎて当初の目標を見失わないように気をつけたいと思う。
 もうすこしメタ的には、ハエというモデルの利点を活かし、総じて実験をスピード感を持って進めてこれたのは非常に良かったと思う。特に、仮説構築・実験設計の両面で自分個人のアイデアがプロジェクトを左右する部分が非常に大きいという実感があり、これは自分の「個人として戦いたい」という欲望によくマッチしていると感じる。


今後の方向性

1年半弱こちらで研究をやってきてみて、今自分がやっていることをこのままの質とスピードできちんと(ポスドクまで含めてあと7年前後)続けていければ、東大・理研・イェールで師事してきた先生(たまたま全員30代だった)がそれぞれ今のポストを手にしたときと同じくらいのレベル感のポートフォリオを作り上げられるだろう、という道筋が見えてきたようなところがある(もちろんその同じことをやり続けるというのが大変で、また運の要素もあるというのは百も承知で、またそれをやりたいかどうかというのは別の話なのだが)。
 その上でさらに彼らを乗り越えていくということを考えると、おそらくそのうち研究戦略を見直す必要に迫られるだろう。というのは、今の「三水準を愚直にすべてやる」という、いわば「解ける問題を丁寧に解く」戦略は、「質の高い理解」にはつながっても、「驚くべき大発見」にはおそらく繋がりにくいからだ。ではそのために何をすればいいのか、具体的なアイデアが特に何かあるわけではないのだが、おそらく「複雑でふわふわとしか語られてこなかった現象・概念を、厳密で分析可能な数理的枠組みにうまく引きずり下ろす」ことが重要で、そのためには(現象・数理の両面で)知識の引き出しを意識的に増やす努力が必要だろう[1]


生活面

研究以外では、特に17年末に真面目に練習しだしたピアノに多く時間を使っている。その他ランニング、電子工作、中国語などいろいろ手を付けたが特に学期中はうまく時間が作れず挫折・中断状態が続いている。来るセメスターで講義等が基本的に終了すると、生活における研究のウェイトが更に上がることになるが、これを精神的に持続可能な状態に保つために、どの程度趣味に時間を割くべきか、意識的に模索する必要を感じている。
 あと一つ危機的なのが本を全然読めていないということ(留学前年80~100冊ペースだったのが昨年読了は19冊、しかも過半数が一時帰国中)。これには英語を読むのが遅いとか通勤が徒歩とかいろいろ理由があるのだが、早急に対策する必要がある(オーディオブックの導入、読書の時間を無理やり作る、諦めて日本語の本を取り寄せる、等)。


その他、世の中のことについて

ここ数年、「自分についてはオプチミスト、世間についてはペシミスト」的なものの見方を(はじめ意識的・のち無意識的に)しているので、偏った感想なのかもしれないが、2018年は(日本も米国も国際関係も)きな臭い一年だったような気がする。流石にまだ自分がアメリカ社会の一員という実感はあまりしないので、なんだかんだ日本のニュースの方を比較的細かく追っていたのだが、中でも特に引っかかったのが「性的マイノリティの"生産性"発言の件」「医学部の女子差別の件」「外国人研修生不審死の件」の3つだった。こういうニュースやそれにまつわる議論を(特に米国のニュース等と比較しながら)見ていていつも思わされるのは、日本の人たちには「人は権利の上では平等に作られている」という民主主義の根本原理がやっぱりしっくり来ていないということだ。(素人なので合ってるかそんなに自信はないが、)日本国憲法を含む近代憲法の基本的な世界観というのは、「国家は自由な個人がアプリオリに持っている権利を相互保証するための組合として契約によって形成する」というもののはずなのだが、実際には日本の人々の心の中では、日本国は何よりもまず民族・歴史・国境・言語によって規定されるものとして意識されている[2]。すなわち「国家が先にあり、国民はその部分として存在する」という順番でものを考えている。人々がそういう順番でものを考えているから、「政府が福祉に使う金額を人の"生産性"によって決める」というような発想をする人間が政治家になり、「女は育児で仕事をすぐ辞めるので医師不足の状況を鑑みて男子を優遇しよう」という議論が大学でまかり通り、また外国人を奴隷のように使い倒して憚らない人間がいなくならないのだと思う[3]。少子化・人口減で大学のポストや科学研究にお金を使う余力がこれからどんどん減っていくだろう日本に帰る職業的なインセンティブがない、ということは前々から思っていたが[4]、「宗教的なシンボルとしての国家」を信じている人々の間で生きていくことは、(それが今はまだ豊かな、自分の故郷であることを差し引いても)深い意味で「安全」ではないのかもしれない、と思い始めている[5]


[1] その意味で行動生態学や行動経済学の誕生物語を参考にしていきたい。最近これにに近い意味で感銘を受けたのがこの人の研究で、これはエピソード記憶と統計的学習に関するふわっとした現象論を、うまく神経表象レベルの仮説に落とし込んで、実際にニューラルネットのモデルまで作り込んでいる。
[2] 誰しも実際にはすでに存在している国家秩序の中に生まれるわけであるので、こういう考え方になってしまうのは何も日本が特別というわけではなく、むしろこのフィクションを地で行ってしまったアメリカが逆に特別なのだと思う。しかしそのアメリカですら白人至上主義が蔓延しているというのだから、いかに「結社としての国家」みたいな世界観でやっていくのが難しいかというのがよく分かる。
[3] ここに上げたニュースはもちろん「ネット炎上」したものばかりなので、もちろんこういうことをおかしいと思う人もたくさんいるというのはきっとそうなのだが、そういう人たちが必ずしも「権利の平等」という筋でものを考えているかというとそうでもない感じがする(例えば、「東京医大は試験を公平にやらなかったのが悪い、最初から女子はX割しか取らないと公言していれば別に良かった」、みたいな議論)。
[4] 金のことだけ考えれば中国が当然視野に入ってくるのだが、こういう視点を考え出すとやっぱり長く住みたくはないなという結論に行き着く。
[5] 裏を返せば、アメリカという国は、ほとんど貴族社会のような世代間弾力性の欠如を呈していていようが、銃乱射事件が定期的に起きようが、リアリティTVスターが大統領になろうが、白人至上主義者が松明を持って行進していようが、国家の誕生神話の一部に社会契約説的な世界観が織り込まれているので、何か信頼できるというところがある。



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