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聴いたもの(2024年5月〜9月)

23/24シーズン最後に聴いたものと、9月下旬に行ってきたオーストリア旅行の感想です。

  • 5/8/2024: Paavo Järvi / Okka von der Damerau / MPhil
    マーラー:亡き子をしのぶ歌
    ロット:交響曲第1番

    イザールフィルハーモニーの最前列で聴いてきた。ロットの交響曲はスケルツォがマーラーに似ている曲、ぐらいの認識でいたが、前半はむしろブルックナーの影響を色濃く感じた(弟子だから当たり前だが)。前半の構成感の希薄さや、両端楽章で歌謡的な主要主題の引力圏から逃れられなくなってしまう所がやや惜しいが、スケルツォでは舞曲のフォーマットがこれらの弱点をカバーしてくれている。このロットの弱点に逆にマーラーの偉さを見るみたいな気分もある。とはいえブルックナーが5番、ブラームスが2番までしか書いていなかった78年に20歳でこの曲を完成させたロットの革新性はすごく、またその後の夭折の顛末を思うとフィナーレを聴きながら少し寂しい気持ちになる。前ワーグナーか何かでも思ったがピニェラのホルンソロが圧巻だった。マーラーはちゃんと歌詞を読んでから行くべきでした。プログラムの意図としては「亡き子」を(作曲当時没後20年近く経っていた友人である)ロットに重ねているのかもしれないと思った。

  • 5/11/2024: Vladimir Jurowski / Staatsoper
    ショスタコーヴィチ:『鼻』

    ゴーゴリの原作はヤッピーの俗物根性を風刺する喜劇という趣で、(まだ党に目をつけられる以前の)ショスタコーヴィチが特別その上に体制批判的なニュアンスを重ねた作品という感じでもないが、今回の演出では登場人物をほぼ全員(暴力的な)警官に読み替えた上で、主人公コワリョーフ以外に逆にグロテスクな付け鼻を与えることで、異常と正常を転倒させて見せているのが面白かった。エピローグで、語り手がメタフィクショナルなオチをつける前に、弦楽四重奏8番のフィナーレの上でコワリョーフが一人慟哭する(本来ない)シーンが挿入されていたが、これが(鼻を失い取り戻すと同時に)暴力を振るう側から振るわれる側へ転落し、また振るう側へ回帰したコワリョーフが、安堵すると同時に内心恐怖から立ち直っていないという読みを効果的に印象付けていた。大量の警官に加え、汚い雪をモチーフにした装置が派手ながら寒々しい感じを出していて、『ヴォツェック』とかソローキンの『親衛隊士の日』とかを思い起こさせた。音楽は交響曲第2番のいちばん鋭角的なショスタコーヴィチのそれで、名前付きの役が80近くあるところとかに27声部の”ウルトラフーガ”とコンセプチュアルに通づるものを感じたりした。21年10月初演ということだが、22年以降ますますレレバントになった演目だと思った。

  • 6/20/2024: Giovanni Antonini / Maria João Pires / BRSO
    シューベルト:交響曲第4番・第5番
    モーツァルト:ピアノ協奏曲第9番《ジュナミ》

    引き続き謹慎中のガーディナーが振る予定だったシューベルトチクルスの二回目。アントニーニは古楽の人ということでビシュコフよりは本来の意図に沿った代役という感じがした。いずれもシューベルト・モーツァルトが20歳前後の作品で、特にシューベルトの4とモーツァルトは彼らが内容的に新しいことをやろうとした意欲作というつながりがあると思った。総じて軽めではあるが楽しく聴けるプログラムだった。ピリスはモーツアルトのソナタ(16番)をピアノのレッスンでやっていたときによく聴いていて、派手なことはしないが細かいフレーズの対話みたいなことを考え抜いて弾く人というイメージがあった。体調の問題とかもあり必ずしも万全のパフォーマンスではなかったのかなと思われる瞬間もあったけれど、非常にいい演奏だった。アンコールに弾いていたシューベルトのソナタ13番の中間楽章も良かった。

  • 6/23/2024: Francesco Lanzillotta / Staatsoper
    ヴェルディ:『椿姫』

    Nadezhda Pavlovaのヴィオレッタが尋常ならざる上手さで、Staatsoperでこれまで観に行った公演の中でも一番観客が沸いていた。Peteanの父ジェルモンも良かったが、小ドゥマの原作を読んで抱いたイメージからは少し堂々としすぎていたかもとも思った。演出は基本ト書きに忠実だったが、2幕2場の仮面舞踏会の場面でガチのカードマジックが挟まりびっくりしてしまった。1幕の間中字幕がフリーズしていて、2幕で復活したときに観客に謎の一体感が生まれた。

  • 6/28/2024: Andris Nelsons / MPhil
    ワーグナー:『タンホイザー』より前奏曲とヴェーヌスベルクのバッカナール
    ブルックナー:交響曲第7番

    2024年はブルックナー生誕200年ということで、今シーズン後半・来シーズン前半にかけてブルックナーが多くかかっている。ネルソンスはゲヴァントハウスをボストンに連れてきていたのを聴きに行った以来でおよそ6年ぶりに生で見た。冒頭やパウゼのppに特に凄みを感じたが、暑い金曜日の夕方ということもあって自分を含め観客の集中力が曲に追いついていなかったのが鑑賞体験として残念ではあった。それでもブルックナーは特に音響的なところに力点のある作家だと思うので生で聴けたのはよかった。ネルソンスに花束を渡されたファースト2表の人が大喜びしていたのがちょっと面白かった。グラジニーテ=ティーラの『復活』に始まり、ワーグナー・ブルックナー・ロット・シュミットなど独墺後期ロマン派系を沢山聴いたシーズンだった。

  • 7/7/2024: Kent Nagano / Staatsoper
    リゲティ:『ル・グラン・マカーブル』

    今年度のミュンヘンオペラまつりで新制作の一本ということで急遽チケットを取ったが、観に行って大正解だった。リゲティは、キューブリック映画で流れるやつを超えて全体像が把握できている作家ではないが、『マカーブル』の音楽は(パロディが多いというのもあり)様式的な振れ幅が大きく、サウンドが面白い(打楽器でピットの1/3が埋め尽くされている)ので思った以上に終始楽しく聴けた。弦や合唱による静謐な音楽と、打楽器による複雑な変拍子のリズムといった要素だけ見ると、美学的にはバルトークの系譜にあるるという感じがやはりする。ゲポポのアリアをはじめ技巧的な見せ場も多い。話としてはタイトル通り人類の終末(?)を描いているが、直接的なエログロ描写も多く、シニカルではあるがコメディ。去年のオペラまつりの『トリスタン』等に引き続きワリコフスキ演出で、避難所か役所に転用されたように見える体育館をベースに、場面に応じて檻のようなものが降りてくる仕掛けになっていた。

  • 8/21/2024: 角田鋼亮 / 東京フィルハーモニー交響楽団
    ピティナ・ピアノコンペティション 特級ファイナル
    プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番
    ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番
    チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番
    ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番

    音大院生ぐらいまでの人が出ているピアノコンクールの決勝。ピアノを習い始めてから人がピアノを弾いているのを見るのが楽しい。年によっては同じ曲を4人中3人がやったりすることもあるらしいので、4曲違うのが聴けてよかった。ただ演奏曲目がこれだけ様式的に多様だと、曲を通じて見せられる力量が質的に違うと思うので、審査員がどう比較しているのかかなり不思議だった。優勝者の弾いていたチャイコフスキーは序奏以降を真面目に聴く機会が少ないが、ピアノは伴奏みたいなことをずっとやらされていて、思った以上にコンクール向きでなく感じた。一番聴かせどころを工夫して作っているのが感じられたのは(比較的)曲として余白の多いベートーヴェンを弾いていた人だったが、技術的には当然ラフマニノフがダントツで過酷なので、他の3人はラフマニノフを弾けるのか?みたいなことは思わされる。

  • 8/25/2024: 平野桂子 / SQUADRA
    レオンカヴァッロ:『道化師』

    プロ歌手の自主公演で、妻がオーケストラに参加していたので聴きに行った。オケはなんとか通って良かったね、ぐらいの仕上がりだったが、流石に歌は上手く楽しく聴けた。夏休みの暇つぶしに市民オペラの歴史を辿った新書レオンカヴァッロ・マスカーニの解説本を読んでいったのがよい予習になった。合唱の人が楽しそうで、自分もいつか市民合唱団みたいな立場でオペラのステージに立てたらいいなと思った。

  • 9/4/2024: Rahav Shani / MPhil
    バッハ:ピアノ協奏曲第1番 ニ短調
    ブルックナー:交響曲第9番

    渡独初コンサート以来2年ぶりのシャニ。ブルックナー生誕200周年シーズンの幕開けということで9番。あまり真面目に聴いたことのなかった曲だったが、一音目から非常に神経の通った、緊張感のある演奏で大いに感動した。弦、金管のサウンドが素晴らしいのは当然のことながら、派手なことをしているわけではない木管がそこにうまくハマっているという印象を受けた。MPhilのシーズンオープナーは去年の『復活』も良かったが流石に気合が入っている。バッハはシャニの弾き振りだったが、ちょっと急ぎすぎという観が否めずあまり見るところはなかった。そもそもブルックナーを聴かせるのと同じ箱でバッハを聴かせるのにちょっと(音響的に)無理があるかもしれない。バッハは降り番の団員が客席で聴いていたのが楽しそうで良かった。

  • 9/20/2024: Christian Tetzlaff / Camerata Salzburg
    ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲
    ヴィトマン:弦楽のためのアリア
    シューマン:交響曲第2番

    日本にいる妻が遅めの夏休みを取って遊びに来てくれたので、オーストリアを周遊して演奏会を色々聴いてきた、その第一弾。会場はモーツァルテウム音楽院のホールだったのだが、外でかかっているダンス音楽の低音が終始中まで聴こえており、演奏に集中できなかったのが残念だった(ザルツブルク最初の大司教聖ルーペルトの日の祭りをやっていた)。テツラフは前BRSOとベルクをやっているのを聴いたことがある人で、表現主義的な意図でもって極端なダイナミクス・アゴーギク・音色を使うスタイルなのだが、そのアプローチが様式的にベートーヴェンに合っているとは到底思えなかった。一応"弾き振り"という体になっているものの、オケにキュー出しなどをするわけでもなく、総じて粗雑で独りよがりな演奏という印象を受けた。シューマンの方がまだ楽しく聴けたが、ここでもテツラフはコンサートマスター席に座って勝手に弾いているだけで、案の定テンポ変化の度にアンサンブルはボロボロになっていた。”表現主義的シューマン”というアイデア自体は結構だが、「みんな俺のように弾いてくれ!」と指示するだけでそれが実現できると考えるのは指揮やコンサートマスターという職能をあまりにナメている。ヴィトマンは外がうるさくてよく聴こえなかった。オケは室内管らしい管の立ったバランスが面白かった。防音設備と指揮者の存在というあたりまえのありがたさを再確認させられたコンサートだった。

    モーツァルテウムのホールは豪華だがこじんまりとしたシューボックス。


    音漏れは残念だったが、ルーペルト祭は昼からテントでビールを飲みつつボスナ(バルカン風ホットドッグ)を食べて堪能した。


    中央駅からバスで30分ぐらい行った所からロープウェイで標高1700メートルぐらいの山(ウンタースベルク)に登ることができ、水のボトルに描いてあるみたいな景色を見ることができる。

  • 9/23/2024: Phillipe Jordan / Wiener Staatsoper
    R. シュトラウス:『サロメ』

    演奏会旅行の第2弾。非常にスコアが複雑な作品だが、オケはこともなげに弾いており流石ウィーン・フィルと思った。指揮(音楽監督)のジョルダンは前にミュンヘンで『神々の黄昏』の抜粋を振っているのを聴いたときにかなり感銘を受けた人。歌はサロメも良かったが、とりわけヨカナーンのTomasz Koniecznyの4管編成を突き抜ける声量に圧倒された。演出のCyril Testeはファッションショーとかを手掛けている人らしい。全体的に20世紀の成金風のセットで、例の踊りはサロメの子役のダブルが踊り、それを舞台中のカメラマンが撮影してリアルタイムで後ろに投影するという仕掛けになっていた(技巧的にはミュンヘンで何回か観たワリコフスキに似ている)。ダブルにサロメの中の少女の部分を投影させているような気配が匂わされていたが、作品批評的な必然性というよりは(歌手が脱いだり踊ったりしないといけないという)現実的な問題の解決策ありきの表現をそう味付けしているというのが正直なところなのかなと思った。とはいえ総じて趣味の良い舞台に仕上がっていたと思う。

    当日の昼間はベルヴェデーレでクリムトなどを見物していたので、世紀末ウィーンよくばりセットのような一日になった。ただ『サロメ』は意匠の上では世紀末的ではあっても、シュトラウス自身がその耽美的・退廃的な美学・哲学に(例えば『トリスタン』におけるワーグナーのように)人格的なコミットメントをしていたという感じはしない(退廃的な人間は家庭やハイキングについての音楽を作曲しないだろう)。標題を音楽の契機としてのみ捉え、その内容にはむしろ無頓着であるという意味において、シュトラウスと『サロメ』にモーツァルトと『魔笛』に通じるところをなんとなく感じた。


    男の生首を提げた女を一日に二度見る(クリムトの『ユディト』)。


    ハンガリー料理を食べ、二重帝国に思いを馳せる。

    ウィーンの歌劇場は19世紀後半の都市拡張期に建ったもので、バイエルンと比べて外装・内装ともに一層派手で、宮廷劇場というよりブルジョワ趣味の建物という印象を受けた。ウィーンが「音楽の街」というイメージで売り出していること、また劇場が目抜き通り沿いに旧市街のランドマークの一つとして建っているということもあって、ミュンヘンのオペラ客よりも観光客が多い感触があった。単に慣れの問題かもしれないが、個人的にはヴェニューとしてバイエルンのほうがフレンドリーだと思った。


    豪華なロビー。立ち見は入り口が別になっているところに資本主義の論理を感じる。

  • 9/24/2024: Ivor Bolton / Wiener Staatsoper
    モーツァルト:『フィガロの結婚』

    昨年夏はヴェローナで『理髪師』を観たので、奇しくも一年越しの続編となった。演出はバイロイトの『マイスタージンガー』がすごかったバリー・コスキー。特に読み替えなどはないト書き通りに近い演出だったが、ロジーナの苦しみにフォーカスを当てるような芝居を効果的に挟むことで、基本チアフルなドタバタ喜劇である本作に感情的な重みが与えられている(例えば3幕終わり、結婚式でうかれた登場人物全員がはけていく中、一人暗い顔で残るロジーナを、スザナが戸口で振り返ってためらう)。当たり前だが浮気のバレた旦那の「もうしません!」には何の保証もなく、妻がそれを赦したことにしたとてそこには疑念やわだかまりが残るはずだ。そういうテクストに内在的な穴のようなものを上手くすくい上げてドラマの核を作り出すコスキーの手腕がすごい(本演出のロジーナは最後、黒い服で現れて、「赦し」は曖昧にされている)。カップルに補色をあてがった衣装のデザインも視覚的に面白かった。歌の面でもやはりロジーナが昔を懐かしむ3幕のアリアに非常に説得力があって良かった。『サロメ』よりも音楽がシンプルなぶんかえって弦楽器のサウンドやアンサンブルの旨さがよくわかった気がした。

  • 9/26/2024: Pablo Heras-Casado / Anima Eterna Brugge
    ワーグナー:ファウスト序曲
    ワーグナー:ヴェーゼンドンク歌曲集
    ブルックナー:交響曲第3番(1873年初稿版)

    ブルックナーの生まれ故郷にほど近いリンツでは、例年9月にブルックナー・フェスティバルという音楽祭が開かれている。必ずしも毎年ブルックナーが演奏されるわけではないようだが、今年はさすがにブルックナー生誕200周年ということでブルックナー中心のプログラムが組まれていた。特に目玉なのが「オリジナル・サウンドで聴くブルックナー」と題したチクルスで、習作を含めた交響曲全11曲がピリオド楽器で演奏される(有名所ではロト、ヘレヴェッヘ、ミンコフスキなどが呼ばれていた)。アニマ・エテルナはインマゼールが創立した古楽団体で、ピリオド奏法でロマン派以降の音楽も演奏するそう。またエラス=カサドもシューマンやメンデルスゾーンで同様の趣向の録音をしている人というイメージ。作曲当時の編成・奏法を再現するということで、弦楽器がガット弦なのもさることながら、ベルの小さいバルブトロンボーン(!)を筆頭に管楽器も微妙に見たことのない形をしていて面白かった。ブルックナーの3番は版の違いがわかるほど聴き込んだ曲ではないが、初稿版は唐突な展開が記憶よりも多いような気はした。ピリオド奏法でのブルックナーについて、エラス=カサドは「曲の構造の見通しが良くなる」というようなコメントをしていて、たしかにスッキリして聴こえて知的には面白いのだが、ブルックナーに求められている音楽体験はそういうことではないという感じは否めない。ヴェーゼンドンク歌曲集は元がピアノ伴奏ということもあり迫力がウリの曲ではないので、こじんまりとしたピリオドの響きに一番よくマッチしていたと思った。ファウスト序曲はいかにも習作という感じでモダンで聴いてもたぶん面白くないと思う。


    会場のブルックナーホール(1,420席)は4割ぐらいしか埋まっていなかったのだが00番のコンサートとかは大丈夫だったのだろうか。チクルスと関係ないティーレマン・ウィーンフィルの1番は5月に売り切れていたあたりにブルックナーファンの欲望の在り処を感じる。

    余談だがこのコンサートの1週間前くらいにアニマ・エテルナが創設者のインマゼールを暴力的な言動などを理由にクビにしたというニュースが出ていた。オランダ語のニュースを翻訳していくつか見た感じ、インマゼールは数年前から指揮台からはほぼ退いて会長的なポジションに落ち着いていたのだが、(エラス=カサドを筆頭とする)後任の客演指揮者が気に食わず、色々無茶な口出しをしていた模様だった。

  • 9/27/2024: Simon Rattle / BRSO
    J. S. バッハ:マタイ受難曲

    ミュンヘンに戻ってきてBRSOとMPhilの定期公演を聴いた。去年の復活祭に聴いたヨハネに続いての受難曲。真面目に聴いたことのなかった曲だったが、2群に分かれたアンサンブルを細かく組み合わせてアリアの伴奏に着けさせる(フルート+弦+独唱、ガンバ独奏+独唱、フルート+コーラングレ2+独唱 etc.)のが面白かった。特に第二部のイエスの死の場面などの劇的な緊張感がすごく、オペラを書かなかったバッハの総合芸術という感じがした。ラトルはレチタティーヴォの間指揮せずにじっと座っているかと思ったら、指揮台から降りて片側アンサンブル15人ぐらいの目の前に立って細かく指示を出したりしていた。福音史家が一番大変そうで、温かい拍手を受けていた。

    ところでこの日は音楽家の労組がBRSOの母体であるバイエルン放送協会に対して賃上げを求めるストをやっていたということで、開演に先立って黄色のベストを着た組合員が登壇して短い曲を一曲やった後、窮状を訴えるスピーチをしていた(ドイツ語だったがオクトーバーフェストのビールの値段に文句を言って小笑いが起きたところだけわかった)。オーケストラ団員も大変な仕事だと思わされる機会の多い数日だった。

  • 9/28/2024: Karina Canellakis / Pablo Ferrándes / MPhil
    ベートーヴェン:エグモントより序曲
    ショスタコーヴィチ:チェロ協奏曲第1番
    ベートーヴェン:交響曲第5番

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