2022年5月8日日曜日

PhDを振り返って

先日イェール大学 Interdepartmental Neuroscience Programを卒業し、PhDを取得した。備忘も兼ねて、イェールで過ごした5年弱の出来事や研究成果、自身の心境の変化などを簡単に振り返り、ここにまとめておく。

博士進学(留学)の経緯

  • 自分には特に近い親戚に学者がいるわけでもなく、したがって大学入学の時点で特に院進学や研究といったキャリアパスを思い描いていたわけではなかった。学部の卒研から修士課程にかけて初めて研究にとりくみ、それが性に合っていると感じたので、博士号を取得したいと思うようになった。また、学部・修士時代の指導教員がアメリカで博士号を取得していたので、なんとなく博士号を取るなら海外(米国)に行くべきだろうという意識があった。

  • 学部4年後半にボストンに半年弱留学し、研究室訪問等をしたことで、アメリカのPhD課程が魅力的だと強く感じるようになった。

  • 他方で、修士入学の段階では5年以上かけて取り組むに足るような研究テーマを思いつくことができなかったので、終始卒業後はとりあえず企業就職し、そのうち気が向いたときにPhD進学すればよいと考えるようになった。事実、ボストン留学中に出会った院生にはこういったキャリアを辿っている人も多かった。そこで修士1年目の夏には日本での就職活動に取り組んだ。

  • 卒研から修士課程の間は、心理物理実験やfMRIを用いたヒトでの認知心理学の研究に取り組んだ。「仮説を立てて実験をし、論文を書く」という研究活動の基本的なサイクルを自力で回す経験がこのタイミングでできたのは非常に良い勉強になったが、分野の手法的な限界でなかなか納得の行く心的現象の理解に到達できていない・また(ジャーナルIF等で見た)インパクトのある仕事ができていない、といった不完全燃焼感が拭えない部分もあった。

  • よりよい心・脳の理解に到達するためにはどうすればいいか?という神経科学のメタ理論的な部分を勉強して自分なりに考えた結果、修士1年の終わり前後に「ショウジョウバエの視覚の研究」をするのが良いのではないかという結論に至った。

  • 自分なりに納得のできる研究テーマ案を見出すことができたので、就職をせずにそのままPhD進学すれば良いと考えるようになった。そこで就職内定を断り、修士2年の秋にハエの視覚研究を行っているPIを擁しているアメリカのPhDプログラム4校に出願した。合格をもらえたYaleとUCLAのうち、研究テーマ・給料・立地などを勘案してYaleへの進学を決めた。(具体的な出願のプロセスについての過去記事


留学までの準備

  • 「昆虫(ハエ)での視覚研究」というテーマを思いついてから、具体的にハエを使ってどういった神経科学研究が行われているのか学ぶため、東大内部で有志の院生が開催していた「ハエ神経科学セミナー」に何度か顔を出した。ここでの議論等を通じて、自分が心理学畑で培ったノウハウを活かすニッチがハエの分野にはあると感じるようになった。

  • 修士卒業から7月末の渡米までの4ヶ月間は、理研BSI(現CBS)風間研にパートタイム研究補助としてお邪魔して、ハエのハンドリングや基本的な解剖・イメージング実験技術などを学んだ。とくに、脳の解剖・固定技術はYale進学後の研究にも直接役立った。

  • 同時期に、ハエの視覚に関する論文を網羅的に読んだり、Courseraの計算論的神経科学のコースを取ったりするなどの勉強に努めた。最近になって当時のノートを見返すと、実際にその後自分が取り組んだ研究の関連文献をこの頃にほとんど全て読んでいたり、研究室でよく使われる信号処理関係の数学的なコンセプトなどを一通り勉強していたことがわかり、我ながら感心した。

  • 渡航直前の7月には、BSI主催のサマースクールに参加した。ここで一線級の研究者のトークを色々聴けたことで、(PhD1年目の講義とあわせて)神経科学のフロンティアがだいたいどこにあるのかよりイメージが掴めるようになった。またこの時出会った参加者の何人かとはその後学会や旅行の折に再会することができた。

講義など

  • 7月末のキャンパス到着後数週間は、英語のブートキャンプに参加した。これはTOEFLスピーキングの点数をもとにかなり杓子定規に履修させられるもので、どちらかといえば「カタコトのTAに文句を言う金持ちの学部生の親への言い訳」として存在しているような気配が濃厚だった。自分のスピーキングは23点だったので、ブートキャンプに続き1年次秋・春学期と英語のクラスを履修した。これらの授業がためになったという実感はあまりないが、留学生の知り合い・友達を作る貴重なきっかけにはなった。

  • アメリカのPhDの前半2年間は、日本で言うところの修士課程に相当し、この期間にいくつかの講義を取って指定の単位を獲得する必要がある。アメリカの大学院の講義は日本のそれと異なり、単に申し訳程度に存在するのではなく、実際に学生が新しいスキルを身に付けられるよう設計されている。そのため、1コマあたり週2回以上の講義がある・課題や試験が頻繁にあるなど、日本での学部時代の講義と比べても作業量が多く大変だった。その代わり要求単位数は多くなく、自分のプログラムの場合は2年次まで毎学期2コマ履修していれば単位が足りるようになっていた。以下に履修した講義を列記する。

    • Neurobiology(1年次秋) 学部生と合同で受講する神経科学の基礎講義で、前半は膜電位のしくみや受容体のシグナリング経路など生物物理・分子生物学的な話題を、後半はシステムレベルの話題を扱う。だいたい一度は聞いたような話だったので舐めてかかったら中間試験で平均点以下を取って焦った。これはGPAに必死過ぎる学部生が悪いと思う。評判が悪く、次年度以降は院生向けの別の授業に置き換わった。

    • Principles of Neuroscience(1年次秋) サイエンスライティングの授業。毎週別の教授が自身の研究分野の基礎的なレクチャーをし、課題として関連分野の最近の論文をアサインする。学生はこれを読んで建設的な批判をするレビュー風のエッセイを毎週一本書く。宿題の分量が圧倒的に重く、受講生には恨まれがちだったが、神経科学の様々な分野の最先端を広く学ぶと同時に、論文のロジックを批判的に検討する訓練ならびに簡潔で凝縮された文章を書く訓練ができる、非常に優れた講義だったと思う。

    • Bioethics in Neuroscience(1年次春) オムニバスで研究倫理等に関するトピックをディスカッションする授業で、どちらかというと教授陣の自発的意欲というよりはNIHのトレーニング・グラントの要請によって存在している気配のある講義。自分より下の学年では教授の方が倫理的にかなり問題アリな発言をして紛糾したという。

    • Comparative Neuroanatomy(1年次春) これまで必修だった医学部生と合同での神経解剖学の講義の評判があまりにも悪かったため、自分の年から新設された研究者向けの(哺乳類の)比較神経解剖学の授業。獣医の教授が担当しており、最終的に事実上獣医の学生と合同授業になっていた。自分は修士までにMRIをやる関係でマクロの解剖学はほとんど頭に入っていた上、実際の研究ではハエを扱っていたため、この講義は簡単すぎる上に役に立たなかった。

    • Foundations of Systems Neuroscience(1年次春) システム神経科学のオムニバス講義。これも聞いたような話が比較的多かったが、教員が自分の研究分野に踏み込んだ話をした回はかなり面白かった。

    • Linear Systems(2年次秋) エンジニアリングの院生(1年生)向けの線形システム論の講義で、行列の固有値・固有ベクトルなど線形代数の復習から、線形力学系の安定性分析、制御理論の話題などをカバーした。実に7年ぶり以上に「定理の証明」をやったので感動した。実際に研究で扱うシステムが線形であることはほぼなく、この講義で学んだ込み入った話はほぼ忘れてしまったが、特に大学レベルの物理をほぼスキップしてしまった自分にとっては、力学系についての導入レベルの話題にこのタイミングで体系的に取り組むことができた収穫は大きかった。

    • Computational and Biological Vision(2年次秋) 微分幾何学が専門のコンピュータビジョンの教授による視覚の入門講義。自分にとって目新しい話はあまりなかったがおさらいにはなった。

    • Dynamical Systems in Biology(2年次春) 生化学・ニューロン・バクテリアの集団行動などをテーマに、非線形力学系の生物学への応用事例を学ぶ講義。後述のQualificationで読んだStrogatzの教科書と合わせて、神経科学における力学系の使い方に親しむ助けになった。

  • 2年次にはQualification exam(通称Qual)を受けた。INPのQualは独特の形式で、教授4名とそれぞれ5回程度1 on 1のミーティングを行い、彼らの専門分野の論文一人あたり約10報についてディスカッションをした上で、その総括として口頭試問を行う。自分はマウスの網膜電気生理・ヒトの海馬・ハエの嗅覚・力学系による認知のモデリングをそれぞれ専門にした教授4名を指名した。Qualでハエ視覚以外の論文を精読した経験は、他分野の問題意識や手法を理解し自分のスコープを広げる役に立った。

  • INPでは卒業までに合計2コマのTAを行うことが義務付けられている。自分は心理専攻向けと神経科学専攻向けの神経生理学実習のTAをそれぞれ一回ずつ務めた。ただ、修士までに東大でTAをした経験に加えて、とくに教育について新しい知見が得られた感じはしなかった。

研究

前にも書いたが、自分がPhD出願時に思い描いていた研究の目標は、「回路研究のための遺伝学的ツールの整ったショウジョウバエモデルで視覚研究をすることで、マーの言う計算理論から回路実装までをカバーした多角的・包括的な脳理解を目指す」ということであった。この方針は基本的には妥当なものであったと今でも思うし、とくにPhD後半に取り組んだプロジェクト群ではこの目標を高いレベルで達成することができたと自負している。PhD課程でまとめた各プロジェクトの簡単なまとめといきさつを以下に記す。
  • Creamer et al. (2019) Journal of Neuroscience Methods 小型プロジェクターと鏡をうまく使うことで、安上がりかつコンパクトにパノラマ視覚刺激を実現するセットアップに関するメソッド論文。自分は17年秋のローテーション中に、プロジェクターの光をオプトジェネティクスに転用するためのコードを書き、GtACRを用いて視覚行動中に神経を抑制する予備的な実験を行った。

  • Tanaka & Clark (2020) Current Biology 2017年までの時点で「小さい物体」に選択的に応答するということだけがわかっていた「LC11」と呼ばれる視覚細胞を対象に、その行動上の役割や応答アルゴリズム、またその回路実装を、行動実験・2光子イメージング・オプトジェネティクス・コネクトミクスなどを駆使して明らかにした。論文の核となった行動実験データとカルシウムイメージングデータは17年秋のローテーション終盤から18年秋までに揃え、19年中はモデリングや実装レベルを探る実験に集中した。20年の年始までに初稿を終わらせ、ロックダウン中にアクセプトされた。前にも書いたとおり「計算理論と実装をつなぐ」という当初の目標が必ずしもここで達成できたとは言い難いが、ハエの先端的なツールを縦横無尽に使った「全部盛り」的論文に仕上がった。

  • Agrochao, Tanaka et al. (2020) PNAS 有名な「フレーザー・ウィルコックス錯視」がハエにも見えることを示した上で、そのメカニズムをイメージングと行動実験で解明し、またヒトの錯視にも同様のしくみが働いていることを心理物理実験で示した。ポスドクと共同筆頭で進めた論文で、執筆の責任分担が難しかった部分があったり、また途中でストーリーの大幅見直しなどがあったりもして、執筆がかなり難航した。自分は17年秋のローテーション中にこのプロジェクトのための予備的な行動実験に主に取り組んだ。また18・19年中には(最終的にボツになった)イメージング実験やモデリング、ヒト心理実験に取り組んだ。自分が東大で学んだ心理物理の実験手技を予想外のところで活かすことができたのが嬉しかった。

  • Tanaka & Clark (2022) eNeuro  2020年1月にJaneliaが公開したハエ脳のコネクトーム(Hemibrain)は、ハエにおける神経回路研究における大きなゲームチェンジャーだった。しかし、Hemibrainの元になった電顕画像の画角の関係で、かなりの数の視覚細胞群が半分「見切れた」状態になっており、アノテーションがされていなかった。この論文では、これらの「見切れた」視覚細胞群を、そのシナプス先や軸索末端の形状をもとにクラスタリング・過去の神経形態学文献と比較することで、細胞種別にカタログ化する作業を行った。もともと2020年春夏のロックダウン中の手慰みとしてスタートし、後述のLPLC1論文の一部としてまとめた解析だったが、スコープを広げた上で別に論文として仕上げる運びになり、21年夏に執筆した。近いうちに視覚系全体を含んだ電顕コネクトームが発表されるという噂があり、断片的なデータに頼ったこの論文が早晩用済みになってしまうのは正直目に見えているが、普段の機能的研究とは一風変わった「図鑑作成」のような作業自体は楽しかった。

  • Tanaka & Clark (2022) Current Biology 前進中の観察者の進路を横切るような物体は、視野上で後ろから前に動いて見えるという幾何学的な法則がある(e. g. 自車線に合流してくる車など)。歩行中のハエは、「後ろから前」に動いて見える物体に遭遇すると歩行を停止することが知られ、これは衝突を回避するための反応と考えられてきたが、その神経メカニズムは不明だった。この論文では、「LPLC1」と呼ばれる視覚細胞がこの行動に必要十分であることを示し、また2光子イメージング・コネクトーム解析・RNA干渉などを駆使してその応答特性や回路計算メカニズムを調べた。もともとは2020年のLC11論文に向けた行動実験から派生したプロジェクトで、LPLC1が上述の行動に必要であるという最初のデータ自体は19年2月に手に入っていたが、実験の大半は20年に出た論文が片付いたロックダウン解除以降1年前後で行った。事実上LC11論文の続編だが、ハエが視覚の幾何学的法則を利用しているような行動に注目することで、うまく計算理論と回路実装の説明を接続できたのが良かった。

  • Tanaka et al. (in prep) 「自己運動と世界の運動の区別」をテーマにした進行中のプロジェクト。もともとは2018年に上級生の(のちスクープされてボツになった)プロジェクトのために行った行動実験に端を発している。論文としてまとめるに足る分量の内容はすでに溜まっているが、帰国直前に行った実験で新しい方向性が開けたので、他のメンバーに追加実験を任せて現在はその結果を待っている。自分の中ではLPLC1論文と合わせて「幾何学的ヒューリスティック」に注目した二部作という位置づけ。

以下研究についての雑感。

  • 5年弱という限られた時間の中で、フルサイズの実験プロジェクトを(準備中含め)2本ずつ並列で2サイクル回すことができたのは、質・量の両面で我ながら誇れる成果だと思う。この高速ペースを可能にした最大のファクターは、研究室の先達が作り上げた行動・イメージング実験装置を有効活用できた点にある。他方で実験装置をゼロから作るエンジニアリング能力の欠如が今の自分の弱点と感じる。

  • 加えて、早めの段階でプロジェクトの着地点を意識して論文執筆を開始することで、論文のストーリーの論理的展開に重要な実験に労力を集中させるよう意識したのもスピーディな進行につながった。これは今後も続けたい。

  • 指導教員であったDamonが非常に優れたメンターだった。院生を多いときで10人近く抱えているにも関わらず、週一ペースで個人ミーティングを設けてくれ、定期的にフィードバックをもらいながら研究を進めることができた。それでいて学生に圧をかけたりせず、各自のペースを比較的尊重してくれた。自分が”失敗”したと思った実験データを持っていっても、常に興味を持って前向きで建設的なディスカッションをしてくれるので、精神衛生上非常に助けられた。特にPhD後半は、自分の研究者としての能力や直感を信頼してもらい、かなり自由にやらせてもらった実感がある。「ハエの視覚」というテーマ主導で、研究室は決め打ちのような形でYaleに行った手前、たまたまDamonがメンターとしても優れた研究者だったことは僥倖と呼ぶほかない。

  • 自身のプロジェクトが研究室のメインテーマと少し離れていたことなどもあって、(錯視論文を例外として)ほぼ一人でプロジェクトを端から端まで完成させるパターンが多かった。将来を見据えてもう少しマネジメントの勉強などをしたほうがいいかもしれない。

  • ヒトの心理実験や、解剖の手技など、自分が研究室外部で学んだことをうまく研究室のエクスパティーズと組合せることが面白い研究につながった(というか、そういう物が何かないとボスの縮小再生産的な仕事に終止してしまうと思った)。

  • パレートの法則というか、論文の核になるような主要なデータは2割の時間で出揃い、野心的でより多くの試行錯誤を要する追加実験に8割の時間がかかるという体感があった。

  • 「良い理解」が得られていないというヒト研究でのフラストレーションがあったからこそ「計算理論と回路実装をつなぐ」という(メタ)研究方針を掲げて5年間やってきたが、「きちんと理解できること」を重視しすぎてテーマがこぢんまりしてしまったという反省もある。それが想像した以上に論文がCNS姉妹誌クラス以上のエディターにウケなかった一因ではと睨んでいる(そういうものを追求することの是非はさておき)。今後はもうすこし大きい謎というか「できるかどうかわからないテーマ」に取り組んでみたい。

生活・心境の変化・今後について
  • PhDの5年間を一言でまとめようとすると、「静か」「穏やか」といった言葉がまず脳裏に浮かぶ。精神的にも環境的にも紆余曲折の多かった2017年以前(=学部・修士課程)の6年間に比べると、ニューヘイブンという片田舎の街に引きこもってやりたい研究に没頭していた5年間は、良くも悪くも安定していた。もちろん技術的な部分で学んだこと・できるようになったことは色々あるのだが、総じて人として考え方が大きく変わったという実感はなく、むしろ17年の時点ではっきり思い描けていた目標をタンジブルな成果にするのに5年かかった、という感覚に近い。

  • 帰国間際に久々にプログラムの同級生と会って話す中で、「PhDを始めた頃は自分の価値を証明せねばという焦りがあったが、やっているうちになんとなく自分の相場のようなものが見えてきて落ち着いた」というような感想を複数人から耳にした。自分にも似たような思いがあり、やはり学部から修士課程の頃はなんとなく「何かを成さねば」というような焦りがあったのが、PhD1年目の講義や研究を通じて、自分が(アメリカなり研究の世界なりで)ちゃんと通用するという手応えを得てからは、好きなことを好きなようにやれば良いと開き直ることができるようになった。

  • 人としての変化を感じなかったのは、部分的にはある種の老成と言ってもいいかもしれないが、ある程度は研究に没頭しすぎたぶんインプットの多様性が減った帰結かもしれない。たとえば交友関係について言えば、寮生活をしていて授業を受けていたはじめ2年間こそ定期的に色々な友人知人と飯に出かけたりしていたものの、授業もなくなりパンデミックの始まった3年目以降は、ほとんど研究室外での人との交流がなくなってしまった。趣味としては当初コンサートや美術館通い・電子工作・語学など色々手を付けたが、(パンデミックのせいもあるが)最終的に続いたのはピアノとビデオゲームという一人遊びだけだった。旅行とかにも学会以外では殆ど行かなかった。東京にいた頃は電車通学中にかなりの量の読書をしていたが、これをニューヘイブンで習慣化し直すのにはついぞ成功しなかった。世界と自分をもっと多様なやり方で再接続するような意識的努力をしていきたい。

  • ここで「人として変化がない」と言っているのは、研究者というか、公的なペルソナの部分を指しているのだが、逆に一個の生活者としては年相応の変化があった。まず第一に、もうすぐ30になるということで、肉体的・精神的に無理が効かなくなってきている。とくに大きい病気をしたとかではないのだが、10年前と比べればなんとなく体の不調を気にしている時間が確実に増えている。また瞬間的な集中力や全体的な気力みたいなものは衰えていると感じる(これはパンデミックの影響もあるだろうが)。仕事のスケジュールを考えるのでも、PhD1年目はどれだけ効率よく仕事を進めるかを最優先して、実験を詰めて入れたり、振り返りの時間を決まった時間に設けたりしていたが、最近はもう少しリラックスしているというか、どう無理なく仕事するかを意識的に考えることのほうが多くなった。

  • 第二に、大人として、自分の人生の長期的な設計を真面目に考えねばならない時期に差し掛かっていると感じる。5年前は、とにかくPhDをやってプロとしての自分の基盤を作る、ということだけを考え、それ以外のすべてを後回しにした状態でアメリカに渡ったが、今はポスドク(後述)以降のキャリアの着地点をどこに据えるか、東京にいるパートナーとの将来をどうしていきたいか、収入と資産をどうマネジメントするか、といった現実的な諸条件に真面目に向き合う時が来ていると思う。 もちろん、PhD出願時の勢いの延長上で、科学研究こそ己の使命であると割り切って、その方向に人生を尖らせ、(ある意味で)単純化してしまうことも可能であり、そういう行き方を規範的に説いたりするオールドスクールな教授もたくさんいるのだが、人生における仕事の価値をそういう絶対的な位置にまで高めてしまうことに、自分はある種の知的な不誠実さを感じる。もちろん自分は科学研究が好きで得意であり、今の所はそれで十分以上に食べていけるので、今後もしばらくは研究を続けていくのだが、状況いかんでは科学研究以外の「好きなこと」に人生の軸足をいつでも移してやる、くらいの留保を自分は持ち続けたいと思っている。

  • 以上のようなことを考えつつ、21年4月から年末にかけてポスドクの就活を行い、来る9月からドイツ・ミュンヘン工科大学のPortugues labというところでゼブラフィッシュの稚魚を使った認知の回路メカニズムの研究を行うことにした。ハエからゼブラフィッシュにモデルを変えることにした(ここは決め打ちで就活をした)理由には、(1)単一細胞解像度での全脳イメージングが可能なゼブラフィッシュでは、行動の神経相関を特定するのが(ハエに比べ)比較的容易であり、行動主導のアプローチがしやすいこと、(2)ハエでは見られないような長い時間スケールにわたるエントレインメント現象など、より”認知”らしい行動をゼブラフィッシュが見せる(らしい)こと、(3)神経科学の大部分を占める哺乳類モデルとの脳の大まかな相同性があり、ゼブラフィッシュで得られた知見の比較的な応用がしやすいこと、などがある。就活段階では勤務地は特に絞らず、日・米・独の3ラボに応募・オファーを頂いたが、研究テーマ・研究室のカルチャー・立地(都市環境、東京へのアクセスなど)などを総合的に検討した結果、ミュンヘンの研究室に就職することに決めた。

1 件のコメント:

  1. STS夏の学校2016でお話してから5年以上。当時の科学雑誌の編集からも離れて、隔世の感があります。ドイツでのご活躍を祈念すると共に、またお話できると嬉しいです!

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